shigiphoto days

FUJIFILM GFXシリーズで撮った写真をつらつらとご紹介。

65:24 - 写真のオナヤミ -

もう2月も終わりですね。まだまだ寒い日があるものの、確実に季節は進んで冬も終わりに近づいています。春の迫った冬景色というのは物憂げに見えませんか?


今日の話と写真は無関係です。タイトルの内容は、定期的にやってくる「自分の写真はこのままでいいのか?」という焦りから発生する悩みについて。

前々からたまーに書いていますが私はスナップや人物写真が苦手です。撮るのはもちろん見る(感じとる)のは特にダメ。私は自分が「美しい」と感じるものを写真評価の軸とするのですが、そこから外れた(私のスィートスポットが狭い説)写真はどうにも分からず意味不明なのです。

「いいね!」「エモい!」と、もてはやされる写真も私の評価軸で選定すると「自分の撮った写真だったら即削除!」となる事が多く、ただし理性では「自分の感覚範囲外だから評価できないだけ」ということも分かっていて、そうすると焦ってしまうわけです。自分は写真の一部しか味わえていないのではないか?蚊帳の外なのではないか?といった感じで。ついでに人の撮った写真も貶したくはありません。みんな頑張って撮ってますからね。


悶々と考えてみると、私は他人に心の底から興味がなく感情移入できないのだな、という結論に至りました。例えば、「生活の雰囲気を感じる対象+流行りのフィルム/シネライクな表現」→ 生活の雰囲気は検知(感情移入)されないので単にフィルム/シネライクなだけの中身のない写真だ…となり、「海外で撮られた力強いポートレート with 技巧を凝らした写真表現」→ 人物からは何も感じないので、凝り過ぎ故に不気味なオーラの滲む写真…といった塩梅に感じます。食べ物で例えると「ソースは完璧なのにメインのステーキは無味乾燥なスポンジを食べてる気分」と言えば分かりやすいでしょうか。(分かりにくいか…)

ただし自分の感覚以外のところで「そんなはずはない!」とも分かるので、感覚とそれ以外で大幅な乖離が生まれて焦りに繋がるのです。この悩みの解決策は今のところ見つかっておらず、自分の中でもどうしようもないなぁと思っているのですが、せっかく色々考えたのでブログに書いてみた次第です。オチはありません。。。


ただ少し光明も見えています。最近よく渡辺さとるさんのYoutubeを視聴しているのですが、その中で「アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は構図が素晴らしい。要素の配置が完璧なんだ」という話をされていて、これは私のスナップ写真(with 人物)のやり方と似ているのですよね。

この辺の記事はそのアプローチが成功しているものです。

www.shigiphoto.com

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100年近く前の、しかも非常に評価されている写真家と似たアプローチをしていたんだ!という気づきは(自惚かもしれませんが)非常に励みと自信になりました。おかげで無いものねだりはしょうがないので、自分のできる事で上達しようと思えています。何年撮り続けても写真の道のりは長いです。まぁそれが面白いのかもしれませんね。